■主催:大会実行委員会(高知県・佐賀県・千葉県・神奈川県大和市・滋賀県) ■協力:淡海ネットワークセンター((財)淡海文化振興財団)

基調講演

「市民自治を拓く『協働』に向けて」

早瀬昇氏
社会福祉法人大阪ボランティア協会 事務局長
特定非営利活動法人日本NPOセンター 副代表理事

早瀬氏社会福祉法人大阪ボランティア協会に1978年に就職。1991年から同協会の事務局長に就任。1995年の阪神・淡路大震災発災時には全国の市民団体と連携し「被災地の人々を応援する市民の会」を結成。現地に一般市民公開型のボランティアセンターを開設する。現在、大阪大学人間科学部と関西大学経済学部の客員教授として市民活動に関して学生とともに研究を進めている。また、国民生活審議会委員などを務める。著書に「NPOがわかるQ&A」(共著、岩波書店、2004)、「企業人とシニアのための市民活動入門」(大阪ボランティア協会、2005)、「NPOと行政の協働の手引き」(同、2003)ほか

  ご紹介いただきましたように大阪ボランティア協会という団体があるのですが、そこで事務局長をしております早瀬と申します。
  私は滋賀には結構縁がありまして、私の父親が大津市の田上黒津町で生まれておりまして、早瀬の「瀬」は瀬田川の「瀬」なのです。田舎に帰ると「早瀬」姓ばかりです。
  それはさておき、今日はこの後「知事・市長セッション」がありますが、その前座として、「市民自治を拓く『協働』に向けて」というタイトルでお話させていただきます。
  今「協働」が非常に流行っています。この言葉は、私の手元にある一番古い辞書『広辞苑』の第2版(1969年(昭和44年)発行)には、すでに載っていますので、以前からある言葉なのでしょうが、特に自治体とNPOとの協働という文脈でよく使われるようになったのは、おそらく「横浜市における市民活動と行政の協働に関する指針」(通称「横浜コード」)で使われて以降ではないかと思います。
  それ以降ですから、1999年にレポートが出てから7年ほど経っていますが、非常にこのテーマが流行っています。それは嘉田・滋賀県知事の開会の挨拶にもありましたように、まず財政的な問題が背景にあって、すべてを自治体(役所)が抱え込むという時代ではもうない。行政責任はあるにしても、その行政と共に住民の皆さんの自主的な取り組みによって、両者の協力によって社会的課題を解決しようという話ですね。今日は、この協働の意味が何なのかという概論的な話を前半で、その後、協働を進める上での留意点、こういうことが大切なのではないかということをお話したいと思っております。ポイントは3点ほどになります。
  まず最初に、「協働」のもたらす効果です。よく言われるのは、私は二つだと思います。一つは経済的な面での意味、効率性向上の可能性があるから「協働」だということです。「協働」することでお金ばかりかかってしまうのなら、財政的に厳しい自治体がなぜするのかという話になりますから、この点は一つあります。
  もう一つは、特に阪神・淡路大震災(以下、「震災」)以降よく言われるようになったのですが、草の根の市民による公共サービスは行政と違う特性がある。その特色をもっと活用したらいいという話が二つ目としてあると思います。しかし、この二つに加えて、もう一つの意味があるということを今日は確認したいと思っています。

  まず、効率性の話です。これに関しては20年以上も前の本ですが、レーガン大統領の時代にミルトン・フリードマン(経済学者)が『選択の自由』という本を出しました。彼が役所の悪口を『選択の自由』で書いているのですが、これは分かりやすいなと思ったことをご紹介しますと、彼はこんなふうに本の中で解説しています。お金の使い方には四つのパターンがある。一つは「自分のお金を自分のために使う」。これは普通の消費です。一方、「自分のお金を他人のために使う」ことがある。この一番簡単な例は「プレゼント」ですね。ところが、いい時があるのです。「他人のお金を自分のために使える」時がある。どんな時かというと、例えば「おごってもらう時」とはそんな時だと思います。
  この三つの場合にどんなふうにお金を使うかというと、「自分のお金を自分のために使う」というのは、自分のお金ですが、自分のためなのであまり贅沢はしないでおこうと思う人もいるかもしれません。逆に、自分へのプレゼントとしてたくさん使う人もいるかもしれません。「自分のお金を他人のために使う」これは結構心を込め、少し格好をつけて使われるかもしれませんが、でも、自分のお金ですから、できるだけ有効に使おうとする。一方、「他人のお金を自分のために使う」。これはありがたいのですが、相手との関係によりますが、少し気を遣うこともあるかもしれません。
  これに対して「他人のお金を他人のために使う」パターンがあるというのです。それが何かというと、ミルトン・フリードマンは「行政のサービスだ」と言うのです。自分のお金ではなく、他人のお金、税金を他者、市民のために使っていると。これは、いわば身銭を切るとか自ら汗をかくことに伴う節約のインセンティブが働きにくいのではないかというわけです。
  このような、行政に対する全般的な不信感があるわけです。

  これ以外にも効率性を促す要因は、いろいろあります。一つは市民活動の動機である「ほっとかれへん」というのは、ある種の民間活力です。自発的な「ほっとかれへん」というのは。活力というと経済的なインセンティブだけが活力だというイメージがありますが、震災の時のあの人々のエネルギーに見られるように、「ほっとかれへん」という力も結構大きい。
  それに、寄付者やボランティアの参加という、自ら汗を流し身銭を切る点で自立性がある。この「自立」性は、同時に「律」する方の「自律」性をも高めます。
  それに「切磋琢磨」することの効果も大きい。滋賀県には滋賀県を治める政府は一つしかないですね。滋賀県庁しかない。ところが、NPOは滋賀県の中にいっぱいあります。そのいっぱいあるものが競争し合うのです。寄付者を集めるために競争し合う、顧客を集めるために(顧客という言い方がいいかどうかは分かりませんが)競争し合う。その中で切磋琢磨がある。
  最後に「地域経済の発展を促せる」というのは、市民活動団体のスタッフは地元の住民なので、税金を納め、地元で消費が生まれる地場産業の育成のような効果がある。

  こうした意味とは別に、もう一つの意味もあるのです。経済的な効果が「協働」で期待できるのではないかという話に加えて、市民による公共活動は、行政とは違う特性をもつという点です。どういうことかというと、例えば、行政の活動の基本は公平さです。「全体の奉仕者」ですから、当然、公平に対応される。平等というのはフランス革命の三原則の一つです。エガリテ(egalite=平等)と言うのですが、大変重要なポイントなわけですが、公平さというのは実は基本的に温かくならないのです。温かさというのは不公平さなのです。「他ならぬあなたのために」という関わりがあってはじめて温かくなるのです。特別に何かするわけですが、それは行政はできない。
  ところが、ボランティアやNPOは、例えばどこかの福祉施設に訪問する時に、いろいろな施設がその市や町にはあって、今月はどこの施設、その次はどこの施設と公平に回るという展開をしても良いのかもしれませんが、「いや、私はあそこの施設長のあの運営方針にすごく共感するから、私はあそこの施設に行っているのですよ」と言って、行けるのですね。市民の場合は構わない。だからそこで心が通じ合うということがある。個々に応じて自分の対応を変えてということが、実は民間の場合は容易です。

  この点に加えて、市民活動は全体に拘束されないから自由に活動できる。このことは震災の際によく言われました。震災の際、ボランティア、NPOの活動が目立ちましたが、一部のマスコミなどは、その際に市民の活躍と対比するかたちで、役所の動きが遅いと批判していました。確かに当の公務員の皆さん自身も動きがとれない状況に何とかならないかとおっしゃっていたのですが、ただしそれは公務員の皆さんがいわゆる「親方日の丸」的な姿勢で動きが鈍かったわけでは決してないのです。だって、西宮市の職員も神戸市の職員も兵庫県庁の職員の大半も、ほとんど被災者なのです。地震というのはみんな被災するのです。被災はしたけれど、自分がなんとか体が動くとなると、みんな役所に行ったのです。行ったら最後、帰られないです。本当によくやっておられた。よくやっておられたのですが、確かに機動性に欠ける部分があった。
  なぜかというと、それは公務員の皆さんは公平にせざるをえないからです。公平にするためには条件がある。どんな条件かというと、全体のことが分かっていないと駄目なのです。仮に500人の方が避難されていて、500人全体が把握できてはじめて500人に対して公平なお世話ができるのです。本当は800人が避難されているのに500人しか見つけられなかったら、とりあえず500人にお世話をする。そうすると、「800-500」で残りの300人は、「何もしてくれないじゃないか、不公平だ」ということになるわけです。全体の把握ができないと公平にできないのですが、震災の重大な教訓の一つは、災害は大きければ大きいほど最初は全体が見えないことです。最初から全体状況が見えている災害は大災害とは言わないのです。だって震災で亡くなられた方がいることが最初に報じられたのは、地震が起こってから2時間20分後、8時7分でした。淡路島で2人の方が亡くなっているとNHKが最初に報じたのが第一報です。その日の夕刊で600人、翌日の朝刊では2000人です。でも5000人もの方が亡くなっていると分かったのは震災が起こってから7日目です。5500人の方のお名前がほぼ分かったのは、1ヶ月経ってからです。最初は分からないのです。しかし、全体状況が分からないと行政職員は困るのです。
  「何とかしてくれ」とみんな役所に駆けつける。神戸市役所の新館の1階と2階は避難所になったわけです。「あそこは壊れていないから」と言って、多くの人が押し寄せた。それに対して、何とかしてあげたいですよ、自分も被災していますから大変さが分かる。でも「分かりました。すぐにヘルパーを紹介します」とはできないのです。なぜか。その方がその町全体の中でどの程度に優先度が高いか分からないからです。分からないのにヘルパーを紹介したら、早い者勝ちになる。「そんなのかまわないではないか」。非常時ですからね。でも、もちろん来たその人は構わないのですが、他の人が「かまわない」とは言ってくれないわけです。「何で、あいつが先なんだ」ということです。

  なぜ、行政が大災害の直後には個別対応がほとんど止まってしまうのか。それは、公務員の皆さんが全体の奉仕者として、まじめに一生懸命に公平になさったからです。ところが、ボランティアやNPOは「自発的」です。「私・発(自発)」ですから、困っている人がいたら「私、手伝いましょうか」と言えば、すぐできるわけです。三宮が大変だ、西宮が大変だ、でも私の知り合いは大阪の豊中に住んでいて、豊中も大変らしいから、私は豊中に行きます…ということも構わないのです。だから、機動的になったのです。

  しかもその取り組みは実に多様でした。いろいろな人がいろいろなことに気がついていろいろなことを始めたからです。
  たとえば「アトピッ子地球の子ネットワーク」という団体は、あの地震が起こった1月17日の夕方…。あの日私は大阪にいたのですが、昼には大阪のスーパーの食料品の棚が空っぽでしたね。みんな買い込んでいました。だんだん電話が通じなくなって、神戸市長田区の方は火事が広がっていたその17日の夕方に、アトピッ子地球の子ネットワークの皆さんは、「西宮はどこどこの病院に、芦屋市はどこに、東灘区はどこに…」と各地域ごとに拠点を決めて、その拠点に対してアトピーの子どもたちにとって負担のかからない食事を届ける全国ネットワークをあの日の夕方につくっていたのです。私は全然知らなかった。私は現地には1月20日に初めて入り、それからずっといろいろな対応をしていましたが…。
  震災の時、17日、18日にはほとんど食料が来なかったのですね。19日にようやく届いた。2日間はおにぎり一つというところもあったのですが、19日になって救援物資が届きだして、その後はお弁当もたくさん届きました。でも、アトピーの方の中には、例えば玄米しか食べられない方もいらっしゃるのです。でも、あの時、玄米しか食べられないとはいかないから、白米のお弁当を食べるわけです。そして、食べながら「体がかゆい、かゆい」と泣いていた子もいたそうです。私はずっと現地にいたのですが、そのことに全然気がつかなかった。でも、アトピーの子どもをお持ちの母親はすぐに気がつき、すぐ始めた。こんなふうにいろいろな人がいろいろと始めるものだから、とても多彩な対応になったのです。このように、全体の奉仕者でないことの良さというのが市民の活動にあります。

  これ以外にも、先駆的にやるからノウハウなども蓄積されるなどの特長もあるのですが、これらの点は、民の共通特性なのです。市民だけの特徴ではなく、民、つまり企業も同じなのです。効率性については企業の方がずっと勝るかもしれません。多様性にしたってそうです。多様性・創造性の発揮に企業はがんばっておられます。
  そもそも現実には企業とNPOと言ったって相対的です。配当するのは企業で、NPOの場合はそんなことしないと言ったって、無配当の企業もあるわけです。違いは相対的です。だから、以上の点に期待したいのだったら「NPOだ、企業だ」と区別しないで、ともかく民間に事業を移したらいい。要はアウトソーシング、市場化テストだけでいいのです。でも、それだけが「協働」の意味なのかということを少し問いたいのが、今日の中心的な話なのです。

  どういうことかと言いますと、協働が大切なのは、なぜか。とにかく行政にばかり頼ってもらっても、行政はずいぶん借金している。行政が借金しているということは、住民が借金しているわけで、そんな中で、「大きな政府」志向は無理だ。「自助」「互助」「公助」のバランスが必要だ。やっぱり助け合いが必要だ、という話ですね。それはそうです。私も助け合いは大切だと思います。助け合っていくというのは、人類の暮らしのスタイルですからね。
  でも、助け合いと言うけれど、世の中で一番大きな助け合いの組織は、行政ですね。行政は実は助け合いの組織です。それも所得税や法人税は応能負担です。収入の多い人がたくさん負担して、負担能力のない人は所得税がない。ただし、消費税は払っているわけですから、みんなが負担しあっているわけです。だから、本当に助け合いが必要だという理屈だけでいうならば、みんなの負担を増やさなければならないのではないかという議論もあってしかるべきだと思います。実際、介護保険をつくったではないですか。だから、負担を増やす合意が得られたら済む場合もあります。

  というのも、制度ならではの強みもあるからです。先ほど話したように、自発的な取り組み、ボランティアやNPOの取り組みが震災で注目されました。しかし、その市民活動には本質的に、非常に大きい弱点があります。どういうことかと言いますと、ボランティア活動は「自発的」という要素を本質に持つ言葉です。この自発的ということは、言われなくてもすることですが、逆にいうと言われても自分が納得しなかったらしないことです。昔、ガンジーは、非暴力、不服従運動という「しない」という市民活動を広げてインド・パキスタンを独立に導いたわけですが、するかしないか自由なのが自発的な世界です。
  この自由というのは、どこまでしたらよいかという基準がない。でも、基準がないというのは楽そうで、実は大変なのです。一般の取り組みは基準を持っています。公務員も基準をお持ちですね。どんな基準かというと、みんなの合意です。みんなで合意した法律であったり、議会の決議であったり、そう言った合意に従って行動する、あるいはしないのです。だって、例えば生活保護の監査などは、どちらかというと、たくさん出し過ぎていないかとチェックされる場合が一般的であって、出していないからもっと出せというチェックはあまりされない。しすぎても駄目だ。とにかくそういう基準があって、例えば住民が「私はこんなに一生懸命税金払っているのに何にもしてくれないではないか。なんとかしてくれ」と役所に言っても、「すみません、議会が…」と他の人が決めることですと言えるぐらいの世界です。

  一方、企業はどうかといえば、企業はいろいろな意味で自由です。ハイリスク、ハイリターンではないですが、どこまでリスクを負うかは個々の企業家の自由です。ただし、彼らにも大きな基準があります。どんな基準かというと、損したら駄目なのです。背任になりますから。我々が「店員さん、もっとまけてよ。これとこれも買うから」と言って交渉しても、「そんなこと言われても、奥さん、これ以上まけたら損しますわ」と言われたら「仕方ないな」と思うようなやり取りがあるわけです。損したら駄目だという明確な基準がある。
  ところが、ボランティアやNPOはそういう基準がないのです。損をするからしないという理屈がない。どちらかというと、損はするけど、でもするのです。ほっとけないから。そういう世界がどうなるかというと、何とかしないといけないとなった時、どこまでするかを自分で決めないといけない。基準がないですから。でも、その際、「私がしますよ」というと喜んでくれますが、「私はできないです」というのはつらいもので、でも仕方がないから断る場合もありますが、結局、相手の問題がよく分かる人ほど、問題意識のしっかりしている人ほど、責任感の強い人ほど、がんばるのです。でも、がんばるとどうなるか、無理をするのです。無理をしたらどうなるか、疲れてくる。疲れたらどうなるか、休まないといけません。病気になってしまいます。でも、休んだらどうなるか。「これだからボランティアはあてにならない」という人が出てくるわけです。
  そう言われても「何を言っているのですか」と当然言い返せますよ。大体、ボランティアが、一生懸命、活動しだすと邪魔する人が出てくるのです。誰が邪魔するのかというと、大体、身内なのです。神戸に本拠を置くNGO、PHD協会の総主事代行・藤野達也さんの言葉で「世界の平和、家庭の不和」というのがあるのですが、私もそうでした。学生時代、さぁ、これからボランティアに行こうと思って玄関先に立ったら、奥から母親が「あんたどこ行くの?」。「どこ行くって、ボランティアやないか」と言うと、「またボランティアか、たまには家のボランティアをしなさい。なんやの、自分のこともできないくせに。誰があんたの部屋を片づけていると思っているの」…。何度言われたか分かりません。そういう「弾圧」にくじけずにがんばるのです、ボランティアというのは。
  だから、「ボランティアはあてにならない」という人に対して、「何を言っているのですか。ここまで無理してるのに、何であんたにそんなこと言われないといけないのか」と当然言えるのです。言えるのですが、「そうですか、私、お宅ぐらいしかお願いできるところがないかと思って伺ったのですが、駄目ですか。仕方がないですね」とか言って帰っていかれる後ろ姿を見るでしょう。それに対して「何、言っているの。あつかましい」と言えますよ。言えるのだけど、何とかしてあげないといけないかなと思う人は、またがんばるのです。すると、また無理をする。また疲れるのです。また休まないといけない。これを「疲労と不信の悪循環」と言いまして、この悪循環の話をある市民活動のリーダーにしましたら、「私、それ、3周目です」という人がいました。3周もしたら危ないのです。でも、これはよくあるのです。

  皆さん、よく言いません。人に何かものを頼む時は忙しい人に頼めと。暇な人に頼んでも駄目なんです。なぜ暇な人に頼んでも駄目かというと、暇な人に頼んでも、しないのです。だから暇なんです。暇な人はずっと暇なんです。忙しい人がますます忙しくなるわけですが、そうなると、がんばる人ほど疲れてしまうのです。
  しかも、誰かに頼まれてした時は、何かトラブルが起こった場合、頼んだ人のせいにできるでしょう。「あなたが頼んだからこうなったのだ。何とか責任とりなさい」と言えるわけです。ところが、自分が気づいて、自発的に思い立ってした場合は、どこにも持っていく先がないのです。それで、どうなるかというと、燃え尽きるのです。昔このことが小説になりました。『惜しみなく愛は奪ふ』という、小説と言うにはあまりに抽象的な本ですが。そこで、ここで私が急に話を終えましたら、「市民活動は自由だけれどもしんどい」という話で、誰もしなくなるわけですが、ともかくこんな問題があるのです。

  私はこれを「疲労と不信の悪循環」と言い、金子郁容先生は「自発性パラドックス」と呼ばれましたが、そういうわけで自発的な人の立場が弱くなる。
  これにどう対処するかは大きな問題ですが、三つ対応策があるのです。どんな対策かというと、一つはあきらめるのです。仕方がない。少し生産的な言い方をすると、「当面の目標を設定する」ということです。当面、ここまでの目標で納得しようというのは、能動的なあきらめということになるかもしれません。
  もう一つの対応策は、運動することです。社会的な問題を個人の自発的な取り組みだけで解決しようとがんばっても無理がある。だから我々は政府をつくっているのだとさえ言えます。だから行政責任を追及するわけです。だって、例えば山本周五郎さんの「あかひげ」の小説がありますが、あれは美談というより悲劇です。目の前で苦しんでいる病人に、金がないからといって薬を差し上げないわけにはいかないではないですか、人間として。そうするとどうなるか。まさに、惜しみなく愛は奪われていくわけです。それで昔は「資産のない者は医者をしてはいけない」とか「三代医者を続ければ田畑失う」といった言葉があったそうです。そこで、いろいろな運動を起こしてきた。
  よくセクター論で、第1セクターが行政、第2セクターが企業、第3セクターが市民活動だという言い方がありますが、歴史的に言えば順番は逆です。まず住民の助け合いがあったのです。その後、営利を本務とする企業が1600年にできた。東インド会社という株式会社です。住民の人権を守るために政府をつくるという概念が広がったのは、その後です。3番目ですね。でも最後にできた政府セクターが大きな役割を担うことになる。やはり「惜しみなく愛は奪ふ」ために、ボランタリーなセクターでは保障が難しいからです。ここのところをきちんと整理した論理をつくらなかったら「協働」は本当にいいのかという話はやっぱり残る。

  もっとも、先ほども言いましたように、行政にも一方で限界があるわけですから、運動だけでは済まない。そこで、市民活動の特性を活かすもう一つの対策を考えねばならない。要は市民の活動を孤立させてはいけないのです。孤立し、自分だけで問題を抱えてしまうから潰れてしまうのです。ですから、がんばっている市民が孤立しないような施策をつくるのが非常に重要な協働の施策だと思います。
  そこで、実際にNPOがどのように支援者を集めているか。一見、話が横にそれるように思われるかもしれませんが、ご紹介したいと思います。

  「NPO」と「支援者」と「対象」の関係についてお話します。NPOの反対は「For Profit Organization」でFPOとも言われます。これはつまり「企業」ですが、その「対象」は顧客で、顧客との関係は等価交換です。企業は1万円の価値の品物を1万円で売っているのです。別に私たちは7千円の価値の物を1万円で買っているわけではありません。商品として1万円の価値があると思うから1万円で買っているのです。等価交換です。
  ところが、NPOの場合はどうなっているかというと、例えばボランティアの場合は対価を貰わないのです。NPOの場合も、介護保険などに参入している人たちは企業と一緒だと思われるかもしれませんが、少しこだわりがあったら、例えば無料で福祉のまちづくり運動の講演会をするかもしれません。そうするとそこで提供するものと受け取るものの間にギャップが生まれるわけです。これを自分たちで埋めようとすると、先ほどの「惜しみなく愛は奪ふ」ことになって、いつか潰れてしまう。

  そこでどうするかというと、NPOは支援者をつくるのです。ピーター・ドラッカー(経営学者・社会学者)は、この「対象」のことを第1の顧客、「支援者」のことを第2の顧客と呼んだわけですが、この「対象」と「支援者」と「NPO」と三者関係をつくるわけです。
  普通どうするかというと、NPOは支援者の代わりに「私がしますよ」とがんばるわけですが、実はこの関係で支援者を確保するのはなかなかうまくいきません。どういうことかというと、支援者の皆さんは自発的にサポートしてくれるのです。でも、自発性は揮発性なのです。あの熱い思いはどこに行ってしまったのだろうと思うことが多いのですが、いつの間にか消えてしまう。また、たくさんの人たちに支援者になってもらうことによって、一人の負担を減らそうとしますが、たくさん支援者になってもらえばもらうほど、「私1人くらい辞めてもいいわ」と思われてしまう。なかなか難しい。

  そこでどうするかという時に、実は支援者にとって関心があるのはNPOでなくて本当は対象なのです。だから、「支援者からNPOに向かう関わり」から、「支援者から対象に向かう関わり」をつくったNPOがあるわけです。支援者の代わりに活動するというより「あなたの参加で対象を直接支えられますよ」という仲介をすれば、もっとうまく支援者を確保できるのではないかというわけです。この典型的な取り組みが、いわゆる精神里親系の活動です。例えばフォスタープラン協会では、「どこどこの地域をサポートしたい」、例えばインド洋で津波が起こって「その被災地の皆さんをサポートしたい」と言うと、フォスタープラン協会はアチェならアチェの子どもを1人紹介してくれるのです。そして「あなたがサポートするこの子の成長を、ご連絡させていただきます」と、毎年記録を送ってくれますし、特別に寄付したらお礼状を本人が書いてきたりする。文通だって場合によっては手伝ってくれるようです。ということで、まるで子どもが新たに生まれたような気持ちになれるものですから、フォスタープラン協会の会費は高いですね。一月、5千円です。月5千円というのはものすごい金額です。だって日本人の一世帯あたりの平均寄付額は年間で3千円をやっと超えたところです。なのに、年6万円を集めているわけです。でも、月5千円というのは、それで子どもが一人育つと思ったら安いものだとも言えなくもない。だって私の子どもは大学に行っていますが、1人5千円で育ったらいいですが、5千円の下宿がどこかないですかね。5万円の下宿もあまりない。そんな中、5千円で子どもが育つと思ったら、2人も3人も育てている方もいらっしゃるのです。いわば、里親と里子の関係になるわけですが、このときに重要なことは、NPOは黒子になるのです。支援者に「あなたがやっているのですよ」という立場を示し、自らは黒子になる。いわば支援者を主役にするのです。すると、支援者も一生懸命がんばるのです。「私がいなかったらあの子はどうなるのだろう」というわけです。

  ところが、多くのNPOの場合はそうではないです。典型的なパターンが、今の仲介の逆のパターンの代理です。たとえば、有名なGREENPEACEという非常に元気なNPOがある。世界中に250万人も会員がいるすごい団体ですが、GREENPEACEは仲介ではなく、代わりにがんばるのですが、その際に、黒子になるのではなく、目立つのです。「今やっていますよ」と彼らは必ず何かする時には自分たちの旗を持っていって、「グリーンピース見参」とやるわけです。「私たちが頑張っているぞ」と。しかも、その際に、普通はなかなかできないことをするのです。フランスの核実験を邪魔しに船を出すわけです。あれには普通参加できないですよ。あの船に乗ろうと思ったら、何週間もかかりますから、皆さん絶対に職場を辞めないといけないし、できないですよね。そのできないことを代わりにしてくれるから会費を払うわけです。

  このように資金集めに両極端の方法があるわけですが、なぜこのような話を皆さんにするかというと、今の「NPO」を「自治体」とし、「支援者」のところを「市民、住民」としたらどうなるか。
  つまり私が言いたいのは、従来の自治体と住民の関係は典型的な代理型ではなかったかということです。自治体が目立つ、がんばるのです。するとどうなるか、市民はだんだんと「観客」になってくるのです。
  そうではなくて、住民自身が主権者なのだから、もっと行政が仲介的に関わる展開があってもいいのではないか。つまり、従来のパターンは行政が強いのです。社会問題の解決に向けて一生懸命がんばる。納税し代表を選出した市民は行政の背後にいるわけです。時々手伝ってくれる場合もありますが。そのような中では、社会問題とは行政の不作為の結果なのです。役所が規制しないから問題なのです。市民の中でも、特に問題意識のある人ほど、役所に批判的になるわけです。このパターンでずっとやってきて、それが社会制度を充実させた面も多いのですが、でも、主権者はこのような存在で本当にいいのでしょうか。
  もちろん行政がベースになってすることもありますが、それとともに市民がNPOを作るのをサポートするとか一緒に協力するとかNPO同士がネットワーキングを組んで自主的に取り組める状況をサポートするとか、そういう構図にしていかなけばいけないのではないか。いわゆる代理型から仲介型、コーディネーションだとか、場合によってはファシリテーションという英語もありますが、それが「協働」だと思うのです。

  もう少し言うと、こういうことです。従来、社会の中で行政と企業が大きな位置を占めてきたのですが、震災以降になると、市民というものの存在が注目されはじめました。だから、例えばCOP3(気候変動枠組み条約第三回締約国会議)で、「京(みやこ)のアジェンダ」がまとめられた時に、「これからの地球温暖化防止では、行政と企業に加えて市民の関わりが必要だ」という形で、三者のトライアングルが重要だと言われはじめた。これはこれで一つの見識だと思うのですが、私は本当は「市民」「企業」「行政」のトライアングルではない。「市民」の位置に入るべきは「NPO」であって、「市民」は「NPO」「企業」「行政」のそれぞれに関わりを持つ位置にあるのだということです。
  確かに市民はNPOにいろいろな形で参加します。でもその一方で、企業に消費者として関わり、労働者として働いているわけです。だから、障害者雇用がなかなか企業で進まない、障害者の法定雇用率に達しないと月5万ずつ雇用調整金を納めますね。大企業の中には、それが数億円になるほど雇用率の低い企業もあるのです。なぜ、そんな企業が存在するのかというと、それは障害者の雇用に熱心でない企業の商品を買う消費者がいるからです。
  ISO14000という環境に関わる経営規格が日本企業で広く普及していますが、それはなぜかというと、ISO14000を取得していなかったら、ヨーロッパで商品が売れないからです。部品も卸せないからです。なぜISO14000が作られたかといえば、それはヨーロッパのグリーンコンシューマーが環境負荷の高い製造工程にある企業の製品を買わないからです。つまり、消費者が変われば企業が変わるのです。たぶん2009年に発効すると思いますが、今、ISO26000という社会的責任(SR)に関わる国際的な規格が議論されています。その影響もあって、最近、障害者の雇用率が大企業では上がっています。CSR報告書で公表されるようになってきたからです。このように、市民は企業にすごく関わっています。別の世界の話ではない。
  あるいは、当然、市民は行政に対して有権者であり、納税者である。その市民と行政の関わりの中で、時々、対立も起こりますが、その対立する市民とは実は一部の市民なのです。市民の代表として関わるのは、代議制を前提とすれば、議会だけです。個々の市民は市民の一部です。というのも、一方で別の意見を持つ市民がいるのですね。この両者の対立を受けて、行政の中で代理戦争をしている。例えば「医療費の自己負担がどんどんと増えて困る」と、文句を言う市民がいるわけです。でもその一方で、まったく病院に行かないのに健康保険料ばっかり取られていると怒る市民もいるのです。その時にそれをなぜ公務員が代理で話さないといけないのか。市民同士で話せばいいのです。でも、そうなっていない。
  なぜかというと、公共サービスは行政が決めることだからです。でも、それでは自治にならないと思うのです。本来は、市民が全体をつくっているという関係、それが意識できるような関係をつくらないといけない。「協働」とはそのためのプロセスだと思います。

講演

  ここで一度まとめますと、市民活動と行政の「協働」がもたらす「効果」は、今日、冒頭でお話しましたように、切磋琢磨の効果がありますね。NPOといっても、例えば委託する際にコンペで委託先を選ぶことができるわけですから。そこには一種の切磋琢磨の効果がありますから、経費的にも安くなるのかもしれない。あるいは、それぞれの市民の個性的で多彩な取り組み能力を生かすことによって行政には難しいことができるという面もあります。しかし、それよりもまず自治力の向上という効果があるから「協働」だと思います。
  そうでないと、企業に先行してNPO・ボランティア団体に対して「こういう施策の担い手はいませんか」と公募するところがよくありますが、その理屈がたたないと思います。NPO法人やボランティアグループに対して「協働」のパートナーとしてある施策の委託をしますので手を挙げてくださいという際、なぜ企業は外されるのか、というのは、以上の論理がなかったら筋が通らないと私は思います。
  さらに、そんなに簡単にはできないと思いますが、市民活動団体との協働が新しいコミュニティを創造する契機になると、傍観者から利害共有者になるから野党的な関わりばかりではなくなるという面もあります。

  もっとも、それが良い面と悪い面があるというのが若干難しいところはあるのですが。これについては、皆さんによってまた評価が違うかもしれません。
  つまり、少し余談ですが、皆さんによって全然評価が違うと思いますし、一面だけを批判するのも何ですが、日本の障害者施策は二階に上げて落としたような流れになっています。二階に上げて梯子をはずすという言い方がありますが、自立支援法の前は支援費制度で、サービス提供が莫大に増え素晴らしいと、一度天国を見たのですね。それがいきなり自立支援法です。「二階に上げて落とすのか」とある障害者が言っていました。
  この点に関し、「昔だったら、あんなにドラスッティックな変化があっただろうか」と、ある障害者団体の人と話しました。つまり、協働にまつわる難しい問題は何かと言うと、昔は運動ばかりしていた障害者団体が事業者になっている。いろいろな形で施策の実施に参画しているのです。だから、批判だけというわけにはいかない。そこで、批判が鈍ったのかもしれないと言っている人がいました。この意見に対する評価は皆さんによって分かれるかもしれませんし、話を混乱させるかもしれませんが、昔、運動をし批判をしてきた人たちが、行政の施策にのって今一緒にやっている。そのことの功罪が実は一方であると思っています。
  でも、被害者意識ばかりで具体案が出てこないという状況が改善した面は、やはりあります。それが良いのか悪いのかクリアな議論がしにくいのですが、それが現実だということでは、そうなのかもしれません。少しだけ物事が成熟したのかもしれないですね。

  それからもう一つ、協働を進めることで、多彩な、あるいは柔軟で、機動的、開拓的なサービスができる市民活動が行政を補完する、その逆で行政が市民活動を補完する面もあって、両方が相互に補完すると私は思っていますが、このような関係ができるという効果がある。
  中には市民自身がするから市民の求める公益サービスが実現できるのだと言う方がいますが、これを言い出したら議会は何をしているという話になりますから、これはあまり言ってはいけないのかもしれません。ただその点で言うと、自治力を高めるための配慮が必要になってくると思います。一つはパートナーの評価方法、何をパートナーとするかという点です。ご存じのようにNPO法人の中には、事業収入中心で寄付金・会費、あるいはボランティアの参加がほとんどない団体もいっぱいあります。そういう団体に限って事業遂行能力が高かったりする。頼りになるのです。でも、その事業形態だったら企業と変わらないのです。その団体に、いかに多くの市民が参加しているか。いかに多くのボランティアが実質的なかたちで理事会に参加しているか、あるいはボランティアとして参加しているか。市民が共感し、市民が多く参加していて、そんな中で、もしかしたらブラックボックスになりかねない行政の仕掛けの中に入りこんでいくことを、市民自身がやっていかないと先ほどの自治の話にはならないと思います。この点は協働のパートナーの評価をする時の一つの視点になると思います。

  もう一つは、これはあまり厳密に言い過ぎたらいけないと思っていますが、自治力を高めるという視点から「協働」を考えていくと、こんなことも言えるのではないかと思ったのです。要は事業の実施を通じて住民に問題の所在、現状理解が深まるのではないか。住民の行動変化で問題解決する領域とは何かと言うと、例えば環境の問題などがあると思います。琵琶湖の問題もそうではないかと思いますが、公害とは昔は産業公害だったですね。企業が悪いのです。でも今は、生活公害というか、生活者のライフスタイルに問題があるという場合もあります。そこに気がつかないままに浪費型の暮らしをしていると、大きな問題になってくる。例えば一つ例をあげますと、こういうことです。
  「リサイクル」ってありますが、リサイクルは良いことをしているように思うのですね。「ペットボトルをこれだけ集めました」と。日本はペットボトルの回収率では世界トップクラスの回収を果たしているそうです。でも実はそれはあまりほめられることではない。なぜかというと、本当は次善の策だからです。ペットボトルを使わないのが一番いいからです。使った時にはリサイクルだけれども、使わない方がいいですね。
  ペットボトルを回収してまわって、私は今日一日良いことをした。その後、そのペットボトルの行方がどうなっているのか。一向にリユースが進んでいない現状を市民は知らされていないのです。見えないのです。ある種、行政はブラックボックスになっているのです。そこにもっと気づけるような作業が進むなら、大変協働の意味が大きいのではないかと思います。
  あるいは、これは少し別の意味なのですが、市民が共感的に動く領域はボランタリーな参加がすごく多いです。この典型的な領域の一つは子どもの安全・安心なまちづくりでしょう。各地域でこぞってがんばっています。この問題は、周囲が目を離したすきに20メートル先で襲われたというような事態が生じているわけで、警察力だけで何とかしようというわけにはいかない。ですから、みんなの問題だということについては理解が広がっいるのです。もともとボランティアという言葉は自警団から生まれたのです。英国でボランティアという言葉が生まれたのは、ちょうどオリバークロムウェルの乱が起こった、非常に治安の荒れていた時代の英国に生まれた言葉なのですが、その意味では「先祖がえり」みたいなところがありますね。

  逆の言い方をすると、本当は行政の事務は、すべて行政の職員でないとできないかどうかというと非常に疑問的です。自治体国際化協会が2004年に翻訳して発行したレポート『地方公共経済圏の組織化』(米国連邦政府・政府間関係諮問委員会。1987年刊)の中で、米国では1977年の調査で1人のフルタイム職員もいない市町村が4400もあったとの記述が出ていて、この自治体の数が近年増える傾向にあることが記述されていますが、規模の小さい自治体はどうしているのか。みんな委託しているのです。徴税は他の自治体に、政策は政党やNPOに、みんな委託している。そんなのを自治体と言えるのか。あくまでも自治体なのです。なぜかというと、議会があるからなのです。自治体の本質は議会なのだそうです。議会があるから自治体なのです。アウトソーシングを大胆にして、議会だけちゃんとやっている。議員ももちろんボランティアですから、ほとんど自治会のような組織ですが、そういうものが米国にはたくさんあって、日本と違ってあまり合併しないようです。
  こういう事例を知ると住民主体で何でもできるのかもしれませんが、でも共感性の高くないものは楽しくない。お金を貰うからやるということも多いですから、共感性の高いテーマは市民のボランタリーなエネルギーの結集が図られやすい。それに、当事者の参加で事業の質が向上しやすい。これ以外にも協働の意味はいろいろあるのですが、この点を確認しておきたいと思います。

  それから、もう一つは「運動」の話です。「協働」という議論が出てくる中で、「運動」は古いのだと。もう「ああしろ、こうしろ」と要求するのは古いのだ。これからは「協働」「協調」の時代だとおっしゃる方がいらっしゃるのですが、本当にそうなのかということは気をつけておかなくてはいけないということはあります。
  昔、私はいろいろな運動に関わっていまして、最初に活動したのは「交通遺児を励ます会」という交通遺児家庭のサポートをする活動です。交通遺児をサポートする活動とはどんな活動かというと、実際は母子家庭なのです。当時、交通遺児家庭の95%は母子家庭でした。今は、活動から離れていますのでどんな状況か分かりませんが、昔はそうだった。子どもがいらっしゃる世代は、父親が働いていることが、特に私が活動していた30年ぐらい前は圧倒的に多かった。今はM字型の女性の労働率の谷が少し上がってきていますから、女性が働く率が上がってきていますが、当時はそういうことがすごく多かったです。これは文化の状況から来るのでしょうが、父親が残された、母親が亡くなったご家族の場合、夫が再婚する例が多かったのです。ところが、私の知る限りでは、夫が亡くなった場合には再婚されずに母子家庭としてがんばられるケースが多く、交通事故遺児家庭問題とは母子家庭問題だったのです。
  しかも交通遺児家庭は、一時、日本のGDPの増加とまったく平行して増えていました。産業政策の一つの失敗なのです。ということで、そういう運動のボランティアをしていたのですが、そのうちに「誰でも乗れる地下鉄を作る会」という会の立ち上げに参加しました。
  今からちょうど30年前に「誰でも乗れる地下鉄を作る会」ができたのですが、私はその会の最初の事務局長を務めました。どういう活動かというと、地下鉄にエレベーター、エスカレーターをつくるべきだと大阪市交通局に要求するわけですが、最初は「何を言っているのだ」という感じでした。当時は電動車椅子がほとんど無かったですから、1人は介助者が付きながら移動していましたが、1人しか介助者がいないと駅員さんに怒られるのです。「私たちが手伝わないといけないではないか」と。でも大阪はまだマシでした。当時は30年前ですが、東京の悪口を言うのも何なのですが、東京と大阪とすごく違うなと思ったことは、東京で車椅子を利用する仲間と一緒に新宿の喫茶店へ行ったのですが、ぜんぜん水が出てこないのです。ずっと出てこずに、じろじろこちらを見て隅で話をしているのですよ。そのうちウェイトレスが1人来て、「すみません、他のお客さんが気持ち悪いと言っているので出てもらえませんか」と言われたことがあります。「なんやねん」というわけですが、そんな時代に運動をしていたのです、地下鉄にエレベーターをつくれって。でも、そんな時代ですから、「全く何を言っているだ」とけんもほろろ。
  でも、こちらも粘りました。ご存じかどうか分かりませんが、大阪はハンディキャブ運動が拡がらなかったのですね。障害者のためにわざわざ車椅子が乗れるキャブをつくって、そのキャブで移動するという「ドア・ツー・ドア」は当時の大阪では流行りませんでした。なぜかというと、一般の交通機関に乗れるようにするべきだという運動をしたからです。だから、障害者用の旅行列車「ひまわり号」も大阪では走らなかった。なぜ特別に障害者のための列車を走らせるのだという発想法があったからです。それで地下鉄にこだわったのです。
  ところがこれも大変で、最初のころは全然分かってもらえないので、交通局の職員に「あなた、一度、車椅子で階段を下りてみて下さい」と言って車椅子試乗会をしたのですよ。本当だったら車椅子で下りる時は後輪の大きい方を前にして後ろ向きに降りるのですが、当時、分からないだろうと思って、前輪を前にして降りたり…。怖いですよ。絶対やったら駄目です。本当はそんなことをしないことは、すぐばれたのですが、その時は「すごい怖いものですね」と言っていたのですが。
  何を言いたいかというと、昔話をしたいわけではなくて、こんなことをやっているうちに交通局のスタッフも基本的に問題だということは分かってくるのです。障害者が移動することがとても大変だと分かってくるのです。それに顔なじみになってきますからね。彼らも別に車椅子を利用される障害者を地下鉄に乗せたくないわけではないのです。乗ってもらいたいのです。だけど、金がないというわけです。そうでなくても赤字の公共交通機関なので、財政担当者に高額のエレベーター設置をしたいなどと、どう言ったらいいのかと愚痴を言っていたのです。
  でもそのうちに、共同戦線を張り出しまして、「今度、集会をするのでしょう。うちの財政担当者に新聞を見るようにと言っておきますから」とか言って、だんだんと連携しだすのです。そして最後は、地下鉄谷町線の延長のときに、平野区にある喜連瓜破駅(きれうりわりえき)という新設駅に第1号のバリアフリー設備ができたのです。
  この時に知恵を絞りまして、それまで我々は梅田だとか天王寺などの地下鉄の中核的な駅にエレベーターを作れと言ってたのですが、それはとても無理だということで、妥協して、新設の駅につくったのです。すると、これはかなり簡単だと気がついた。もともと掘っているので、エレベーターを加えるのも、ちょっと掘るだけなのです。だから既存の駅につくるより、ものすごく工事費が安い・びっくりするくらい安いのですよ。
  そうこうしているうちに、最後はどうなったのかというと、開通式を一緒にやったのです。

  その時、思ったのです。やはり、「愛情の反対は憎悪ではない」のです。これはマザーテレサの言葉です。「愛情の反対は憎悪ではない、無関心である」。つまり、一生懸命に我々が運動をしていた時、私と交通局の人とは敵と味方の関係です。この時、両者の間に一般の市民がいるように思われそうなのですが、そうではないのです。一般の市民はもっと遠いのです。私たち文句を言っている市民というのは、地下鉄問題を考えようという点では交通局の人と仲間なのです。そう考えないといけない。だって、例えば私は阪神ファンなのですが、巨人が嫌いです。でも、そんな私ですが、阪神ファンと巨人ファンの人はサッカーファンよりは仲間なのです。つまり、そういう点で提案的な「運動」については、意見の違いはあっても仲間なのです。
  あの時の地下鉄運動があったから、大阪市の地下鉄はあと何年後かにエレベーターの設置が100%です。当時の運動のおかげです、高齢者がたくさん乗っているのは。運動の結果、今の公共交通機関になっていたのでして、先見の明みたいなものです。そういうことが一つあります。

  最後に「協働」のミクロの話をしたいと思います。ボランティア…、NPOでも良いのですが、協働関係は大変難しいですね。
  今までのような形で委託の関係を作ろうと業者扱いをするとNPOから文句を言われるわけです。かといって、「市民の皆さん」とか言っていたら、話がものすごく時間がかかって、気を遣うわけです。協働関係は非常に難しいということを、実感しておられると思います。
  大阪ボランティア協会にはボランティアセンターの機能もありますので、実は私どもはボランティア活動をしたい人とボランティアに来てほしい人をつなぐ仕事をしていますが、この「協働」もすごく難しいのです。なぜ難しいかというと、ボランティアと依頼者の関係は対等になりにくいのです。もっと簡単に言うと、ボランティアの方も大変なのですが、依頼者が難しい。だって、ボランティア活動をしたいという人がいて、一方でボランティアに来てほしいという方がいらっしゃるから、この両者の関係は成立するのです。このボランティアの応援を依頼する人は本当はボランティアに来てほしくないのです。なぜかというと、本当はボランティアではなく家族に来てほしいのです。あるいは本当は行政の制度を利用したいのです。あるいは本当は企業のサービスを買いたいのです。赤の他人に権利としても要求できないことをお礼も払わずに援助を受けたいという人は少ないです。
  皆さん、ボランティア活動をしてみたいとひょっとしたら思って下さっているかもしれませんが、ボランティアに援助を受けたいですか。震災の時に「ホームステイを受け入れることができます。うちの家は離れがあります」「一間空いています」「どうぞ寒い体育館で寝るのではなく、うちの部屋を使ってください」。全国からたくさんの申し出がありました。でも誰が行かれたか。ほとんど行かれていないです。なぜかというと、これ以上気を遣うのはいやだということです。ボランティアが上に立ち、ボランティアに来てほしい人は少し下になる関係になりやすい。
  この関係を考慮して、有償の活動がありますが、これがまた難しい。有償にしたらうまいこといくかというと、これも違うのです。有償にするとどうなるか。あなたは貰う人、私は払う人、そうすると、1時間500円でも、一月まとまったら数万円のお金になるのです。するとお金を払う人は雇用者になるのです。貰う人が労働者になるのです。それにて、Aさんが来たら500円でしてもらえます。Bさんが来ても500円でしてもらえます。AさんとBさんの働きが違ったらどうなりますか。いわゆる商品化してくるのです。カール・マルクス(経済学者)の言うところの「疎外された労働」です。とにかく、この関係は難しいのです。
  この関係をどう対等に結びつけるかが大阪ボランティア協会のようなボランティアコーディネート機関の仕事なのですが、そこで鍵となるのは依頼者です。なぜかというと、普通、困ったことが起こったからといって、わざわざボランティアの依頼はしてこないのです。赤の他人に権利として要求できないことをお礼も払わずに援助を受けたいという人は少ないです。つまり、あきらめておられるのです。
  でも、あきらめられない方がいる。「家族」「制度保障」「購入」と三つの支え方がありますが、家族がみんな障害者であったりするのです。行政の制度も十分ない。企業のサービスは買えないわけです。そのような中でどうするか。普通だったらあきらめるのです。
  でも、あきらめられないからボランティアに依頼してくるのです。なぜ、あきらめられないか。それは夢があるからです。願いがあるからです。何とかうちの老人ホームを、なかなか家族の人も来てくれないけれど、風通しのいい、いろいろな市民の人たちが出向いて、いろいろなことをしてくださる、そんな福祉施設にしたいという施設長の思いがある。あるいは、例えば自閉症の子どもをお持ちの母親が、何とかこの子を地域で伸びやかに育ててやりたいという願いがあるのです。願いに共感するから、活動するわけです。そうすると、「する人」「される人」という関係ではなくて、「協働」をして同じ夢を実現する仲間になるのです。

  一つ、例をだしますと、筋萎縮性側索硬化症という難病があります。よくALSと略称される大変重い難病です。動かなくなる病気です。筋萎縮が起こって顔の表面も筋肉ですから、人によっては亡くなられる前に顔がつり上がったりする方も一部いらっしゃいます。側索硬化症、側索とは何かというと、神経線維に軸索と側索があるそうで、筋萎縮性側索硬化症は神経の病気なのです。軸索というのは感覚神経、自分の意志を伝える神経が真ん中を通っているのだそうです。その周りを囲んでいる側索という神経があって、これが運動神経を通す。私も専門家ではないからそう教えてもらったのですが、それが硬くなる。それで運動神経が通じなくなり、動かなくなるのです。動かなくなるのですが、意識は最期までしっかりしている。3年ほど前にNHKスペシャルで「告知」というタイトルで、筋萎縮性側索硬化症の患者のことを特集していまして、どんな話かというと筋萎縮性側索硬化症の患者に告知しないといけない。病気の告知かというと違うのです。病気はもう分かっている。どんな告知をしないといけないかというと、だんだんと動かなくなると心臓や肺の筋肉も動かなくなって亡くなるのですが、人工心肺をつけると生きていけるのです。そこで、人工心肺をつけて全く動かないけれども生き続けるか、付けずに亡くなるかを選んでもらうのです。そういう告知なのです。そんな病気があるのですね。たいへん重い難病です。
  20年ほど前にALSの患者が入院している病院から私どもの大阪ボランティア協会に電話がありました。どんな電話かというと、「うちにALSの患者が入院している。ちょっと手伝ってほしい」と。「どんな手伝いですか」「食事の介護をしてほしい」というのです。食事の介護は病院がするものじゃないですか、何でボランティアがしないといけないのか。こういう理由だという。実はその方の症状がだんだんと進んできて、かなり弱っているので食事をとるのにすごく時間がかかる。簡単に飲み込めないので、食事介助がもう1時間どころではない。それでこの状態では無理だと言って、主治医が鼻の穴に管を入れて、食道まで落としてそこに流動食を入れるという段階に来ていると言われた。これが進むと次は胃瘻(いろう)です。胃に直接入れる。これも駄目だったら、点滴ですね。点滴までいくと、あとが厳しいですが、そういう段階があります。
  それで最初の鼻の穴から管を入れる段階だと医者が勧めるのだけれども、本人も家族も「それだけは、やめてくれ」と抵抗しているのだそうです。それはそうですね、口を通らないということは味わえないでしょう。行動もものすごく拘束されます。それでどうしているかというと、レジスタンスされているわけです。夫がたまたま病院から自転車で5分ぐらいのところに勤めていたものですから、毎日昼休み2時間休憩を取って、その分、毎晩残業で埋め合わせしている。夕飯は息子が1人いたのですが、クラブもバイトも全部辞めて毎日来ている。週末は家族でやっている。
  問題は朝だというのです。朝は夫も朝礼とかあって、病人にずっとつきっきりになれない。そこで、なんとか病院でいろいろやっていたのだけれども、ところが病院の朝食は8時前で、時間帯的には夜勤帯です。非常に厳しいというので、ボランティアに頼んできたのです。
  でも、ボランティアも朝は忙しいのです。絶対無理だと思いました。そんなの絶対来れるわけないと。でも、駄目でもともとだと募集したところ、15人くらいボランティアが集まったのです。なぜだと思いますか。「うちの夫は絶対そこまでしてくれない」というわけです。つまり共感されたのです。すると、たくさんボランティアが集まったので、一人ひとりの負担が減り、2週間に1回ぐらい行けばよくなったのです。その後もいろいろとありましたが、「1ヶ月しかもたない」と言っていた医者の見立てを越えて、3ヶ月くらい続きました。
  それもやっぱりできなくなってからは、話し相手です。話し相手もすごくて、ものすごく優しい方だったのですが、その方が怒ったことが一度あって、喧嘩をしたのです。その時に仲介に入れたのはボランティアです。看護婦は入り込めないですよ。ボランティアとご夫婦とは戦友のような関係でしたから。1年ちょっと過ぎで亡くなられて、みんなでお葬式へ行きましたが…。

  何の話をしたいかというと、つまり、こんな言葉があるのです。「自発性を励ますものは自発性しかない」。ボランティアの自発性を励ますものは、依頼者の自発性しかないのです。本人たちががんばっているから、そのがんばっていることでボランティアもがんばれたのです。
  何でこんな話を皆さんにするかというと、「協働」も同じなんです。最後の最後で精神論を語るような感じで恐縮なのですが、「協働」という時に、「協働」を通じて行政職員の皆さんが協働の後の町をどのような町にしたいのかという夢を語れないと、住民は「また騙すのだろう」という話にしかならないのです。精神論で申し訳ないですが、絶対そうなのです。
  というのは住民の自発性なしの「協働」は単なる委託なのです。住民がそこに自発的なエネルギーを感じていかないと、本当の自治がどうのこうのという「協働」にはならないのです。だから、皆さんが「こうしようよ」と腹蔵なく話し合う関係をつくっていかなければならないと思うのです。
  もちろんこれが難しい理由には、一方では住民の側の問題もあるのです。「あの時、課長がこう言った、ああ言った」とかすぐ言質を取るような住民がいると、「もの言えば唇さびし」ですから、皆さんも貝になってしまわれる面もあります。でも、そういう揚げ足取りを言ったら駄目だと言い出すような、ちゃんと牽制する住民も育ってきていますから、やはりこういう形でいきたいというビジョンを持った中で関わっていただけることがいいのではないか。もちろん精神論だけではうまくいきません。いろいろな取り組みや手続きが必要になってきますし、各地でいろいろな取り組みが工夫されています。その具体的な内容については私がご説明する余裕もないので、とりあえずこんな形になります。ああやこうや言いながら最後は精神論みたいな感じで嫌だと思われるかもしれませんが、やはりそういったものも加わった新しい公共サービスのマネージメントが「協働」なのではないかということで私のお話を終わりたいと思います。
  ご静聴ありがとうございました。